e-Taxによる電子申告が普及し、マイナポータルを通じた各種データの自動取り込みも始まっています。国税庁はAIチャットボットを導入し、確定申告の会場にもデジタル端末が並ぶようになりました。
それなのに、「今年も確定申告が難しかった」「何をどこに書けばいいのかわからない」という声は、毎年変わらず聞こえてきます。
なぜでしょうか。デジタル化が進めば、税制はもっと簡単になるはずではないのでしょうか。
この記事では、その問いに正面から答えます。
「手続の簡素化」と「税制の簡素化」は別の問題だからです。デジタル化は申告の「やり方」を便利にしましたが、税制の「中身」の複雑さは何も変わっていません。
電子申告や自動計算ツールの普及は、確かに申告作業の負担を軽減しました。国税庁の公表データによると、所得税申告のe-Tax利用率は令和6年度に74.1%に達しており、着実に普及が進んでいます。デジタル化による「手続の簡素化」としての成果は、次のとおりです。
- e-Taxで自宅から申告でき、税務署に足を運ぶ必要がなくなった
- マイナポータル連携により、給与・医療費・ふるさと納税などのデータが自動入力される
- 計算ミスが減り、入力漏れのチェックも自動化された
しかし、申告が難しい本質的な理由は、手続の煩雑さにあるのではありません。どの収入がどの所得区分に該当するか、どの控除が自分に適用できるか、例外規定はないか――こうした「税制の中身」を正しく理解することの難しさが、確定申告を毎年の難題にしているのです。
税制の難しさの本質は、次のような点にあります。
- 所得は10種類に区分されており、副業・暗号資産・不動産収入がどれに当たるか判断が必要
- 医療費控除・住宅ローン控除・青色申告特別控除など、適用できる控除の条件と例外が複雑
- 税制改正が毎年行われ、前年と同じ方法が通用しないことがある
税制は、複雑な経済社会のあらゆる取引や個人の事情に対応しなければなりません。公平な課税を実現するために細かな規定が積み重なり、その量と複雑さは年々増しています。デジタル化は、こうした複雑さを「見えにくくする」ことはできても、「なくす」ことはできません。
言い換えれば、電子申告は「複雑な申告書を便利に提出するツール」であり、「申告書を簡単に理解するツール」ではないのです。
この構造——税法そのものは複雑なまま残しつつ、手続や見せ方だけを簡単にするアプローチ——は、「シンプレクシティ(simplexity)」と呼ばれます。simplicity(簡素)とcomplexity(複雑)を組み合わせた造語で、表面上は簡単に見えるが、根底には複雑さが共存している状態を指します。国税庁が提供するタックスアンサーや各種手引き、AIチャットボットも、このシンプレクシティの取り組みの一環です。シンプレクシティが生み出すリスクについては、生成AI・AIチャットボットで税務相談をするリスクの記事でも詳しく解説しています。
こうした取り組みは、専門家に頼れない納税者が税制にアクセスするための手助けとして、大きな意義を持っています。しかし、便利になったことと、制度が簡単になったことは、別のことです。この違いを意識しておくことが、税制と向き合う第一歩になります。
本当です。デジタル化には「恩恵を受けられる人」と「取り残される人」を分ける側面があります。
e-Taxやマイナポータルを使いこなせる人にとって、デジタル化は明らかに便利です。いつでもどこでも申告でき、データの入力も自動化が進んでいます。
しかし、デジタル機器の操作に不慣れな人、特に高齢者やインターネット環境が整っていない方にとっては、「デジタル前提」の税務手続は、かえって難しく、疎外感を与えるものになりかねません。これを「デジタルデバイド(情報格差)」「デジタルエクスクルージョン(デジタル排除)」と呼びます。
問題は、こうした方々が「取り残される」ことにとどまりません。税制は、すべての国民が理解し、主体的に関与できることを前提に成り立っています。その前提が、デジタル化によって崩れていく危険があります。
「制度を理解できること」と「制度にアクセスできること」は、税制の民主的な正統性を支える柱です。電子申告しか選択肢がない状況になれば、デジタルリテラシーを持たない人々は、税制から実質的に排除されることになります。
この問題に対しては、「紙による手続と対面での相談窓口を一定程度維持する」という方向性が、誰一人取り残さない包摂的な制度設計として求められます。デジタル化の推進(効率化のアクセル)と、アナログ対応の維持(包摂性のブレーキ)を同時に踏む必要があるというのは、一見矛盾しているように見えますが、これこそが税制設計の難しさであり、避けて通れない課題です。
令和5年の税制調査会答申は、納税手続のデジタル化によるコスト削減を強調していますが、一方でデジタルに不慣れな人への配慮も求められています。この両者の間には、解消されていない緊張関係があります。
令和5年の税制調査会答申は、租税原則の1つである「簡素」について、「税制を理解しやすいものにし、国民と税務当局双方のコストを軽減する」役割を担うものとして説明しています。また、「納税手続のデジタル化等により、国民や税務当局の負担が抑制されることにも留意が必要」と述べ、デジタル化によるコスト削減を積極的に評価しています。
この方向性は合理的です。手続の効率化は、国民と税務当局の双方にとってメリットがあります。
しかし、注意が必要なのは、「簡素」の意義はコスト削減にとどまらないという点です。
税制は、国民一人ひとりが内容を理解し、自ら申告することを前提とした制度です。税制が過度に複雑で、あるいはデジタル化が進みすぎて、多くの国民が「制度の意味がわからない」「自分には関係のない話だ」と感じるようになれば、次のような問題が生じます。
- 税制への平等なアクセスが実質的に損なわれる
- 税制に対する民主的な議論や参加が阻まれる
- 「自分で申告する」という申告納税制度の理念が形骸化する
- 内容を理解できないまま法律の遵守を強いられる——つまり、知らないうちに一方的にリスクを負わされることになり、自由や権利の侵害につながる
こうした観点からすれば、デジタルに不慣れな人を制度から排除しない設計を維持することは、単なる「高齢者への配慮」ではなく、誰もが納得して税金を納めるという民主主義のルールを守るために必要なことといえます。
現実的には、紙と対面のすべてを永続的に維持することは難しいかもしれません。しかし、デジタル化の速度に制度の包摂性が追いつくまでの間、アナログ対応を拙速に廃止しないことは重要です。
手続面のさらなる効率化は進みますが、税制そのものが簡単になるわけではありません。むしろ「AIが簡単に見せてくれる税制」と「実際の税法の複雑さ」の乖離が広がるリスクがあります。
国税庁は、AIを活用したチャットボットサービスや、e-Taxの利便性向上を継続的に進めています。将来的には、生成AIを活用したより高度な案内サービスが提供される可能性もあります。また、給与所得や公的年金、医療費、ふるさと納税などのデータを事前に取り込んだ「記入済み申告書」の仕組みも、すでに一部で先行導入されており、今後さらに整備されていくと見込まれます。
こうした取り組みは、多くの納税者の負担を大幅に軽減するものであり、歓迎すべき方向性です。
しかし、同時に懸念される点もあります。
- 主体性の低下:AIが税制をわかりやすく説明してくれるほど、納税者が「税制を理解しなくてもよい」という感覚を持ちやすくなります。これは、自分で申告内容を判断するという主体性の低下につながりかねません(この問題については、生成AI・AIチャットボットで税務相談をするリスクの記事でも詳しく解説しています)。
- 例外・複雑ケースの放置:AIや記入済み申告書が便利になればなるほど、それが対応できない「例外」「複雑なケース」に該当する納税者が、適切な対応をとれないまま放置されるリスクがあります。大多数には便利な仕組みが、少数のケースでは落とし穴になる、という構造的な問題です。
- プライバシーと透明性の問題:税務行政のデジタル化が進むことで、国税庁が収集・分析できるデータの量と精度が飛躍的に高まります。これはコンプライアンスの向上や適正課税の実現につながる面がある一方、納税者のプライバシーや、AIによる調査選定の透明性・公正性という問題も浮上してきます。
「手続が便利になっても、制度を理解する努力は変わらず必要」ということです。そして、その努力を支援してくれる専門家の役割は、デジタル化が進むほど重要になります。
デジタル化が進んだ結果、多くの場合は申告作業そのものは楽になっていきます。しかし、次のことは変わりません。
- 自分の収入・支出がどの税務上の区分に該当するかを正しく把握する必要がある
- 適用できる控除や特例を自分で(または専門家の助けを借りて)確認する必要がある
- AIや自動計算ツールが提示した結果が、自分のケースに正しく当てはまっているかを確認する必要がある
特に、次のような状況にある方は、デジタルツールへの過度な依存を避け、税理士への相談を検討することをお勧めします。
- 給与所得以外の収入がある(副業、不動産収入、暗号資産など)
- 相続、贈与、事業承継など、資産に関する手続きがある
- 国際取引や海外資産がある
- 税務調査の通知が来た
デジタル化は「わかりやすく申告するための環境」を整えてくれますが、「何を申告すべきか」の判断まではしてくれません。ときに誤った回答を示すこともありますし、その場合でも責任をとってくれるわけではありません。
多くの税金は、納税者自身の責任の下で、自分で申告し、納税する仕組みがとられています。つまり、AIを使おうが、税理士に依頼しようが、自己の申告義務の有無や申告額、税務上の観点からの取引等の選択等の最終的な判断は、納税者が自らの責任の下で行うものです。
もちろん、その判断を支援するのが、税理士をはじめとする専門家の役割です。AIや自動化ツールが高度化するほど、「専門家が本当に必要な場面」と「自分で対応できる場面」の見極めがますます重要になってきます。
まとめ
デジタル化は、税務手続の「やり方」を大きく変えました。しかし、税制の「中身」の複雑さは変わっていません。この2つを混同しないことが、税制を正しく理解するための出発点です。
また、デジタル化の恩恵がすべての人に均等に届くわけではありません。高齢者や情報弱者が制度から排除されないよう、デジタルと紙・対面の両立を維持することは、効率化だけでなく、税制の公平なアクセスを守るためにも必要なことです。
AI・デジタル化が進む時代だからこそ、「制度を自分で理解しようとする姿勢」と「本当に難しい場面では専門家に頼る判断力」の両方が、納税者に求められます。
デジタルに振り回されるのではなく、デジタルを「賢い道具」として使いこなし、本当に大切な判断を自分の手に取り戻す。それが、これからの納税者に必要なスキルといえるでしょう。
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